望まない

自分が思う自分でいられない現実が怖かった。人の目が怖い。あなたの目にぼくはどう映ってしまうのだろう。 前髪は崩れていないだろうか?この服装は季節に合っている?あっ髭はちゃんと剃れてた?

どう剃ったとしても体質的に髭は少し残ってしまう。カミソリに負けた肌から滲む血を拭き取る。Webサイトを参考にコンシーラーとリキッドファンデーションを重ね、パウダーをはたいてみる。これで本当に良いのだろうか。外に出る。行く先々の窓ガラスに自分が映っている。口元に残る青ひげがだらしない、ぼさぼさの長髪を後ろにまとめた男がこちらを見つめ返してくる。これが自分だった。どうしようもなく。 認めたくなかった。とてもじゃないけど可愛いだなんて思えないし、綺麗でもない。汚らしいとさえ思った。努力を重ねても足りない。そうやって何度も道端で嗚咽し、洗面台の鏡を睨み続けること半年。もうやめようと思った。このままでは生きていけない。ぼくは胸元まで伸びた髪を切った。

身体に沿って男性的なスタイルを取ってみると驚くほど外出しやすかった。似合っているし、こちらの方が良いとまで言われた。社会から要求される(もしくは自分が要求する)身だしなみの水準が低くなり、朝の身支度も格段に楽になった。青ひげが残っていた所でべつに不自然では無い。だってもともとふつうに男性なのだから。

鏡を見る。胸元に手をやってみるが、そこに髪はない。実感が湧いた瞬間に涙が溢れてきた。拭っても拭ってもしばらくは止まらなかった。髪を切った。ただそれだけなのだけれど。ぼくはようやくそこで、ああ、しっかり傷ついたのだと、他人事のように悟った。

それから半年間。何の苦も無く毎日外出できるようになったし、職にも就けた。これで良かったのだと思う。この程度のことだった。


当てはまりようもない型に自分を押し込むのは苦しかった。それにぼくは意思が弱く、置かれた環境もその在り方を許さなかった。実現できた人々に対しては心からおめでとうと拍手したい。きっとたいへんな努力を重ねてきただろうから。それに、彼らを妬んでも良いのだけれど、諦めても別の人生が続いていくという現状への喜びがそれに勝っている。いつまで続くかはわからないけれど、今はこの結論で許してほしい。


遠い憧れ。実現するまでの道のりが長い、不可能にすら思える物事。苦しむくらいならすべて諦めて距離を取ったって良い。そうして見える景色もまた素晴らしいし、諦めた悲しみがずっと続くようであれば、それは本当に確かなものだったのだと認める時なのだ。

真に譲れない本質的なものとは、こうして見つけていけるのかもしれない。望みを絶った先にもまた答えがあるのだと、ぼくは信じている。信じていたい。